火山災害救護活動〜ボランティアの先駆け
磐梯山噴火当時、通信手段が限られていたにも関わらず、この噴火による災害の様子は新聞各紙に大きく取上げられました。全国から多くの人々が災害ボランティア活動に携わり、日本の「ボランティア元年」が幕開けしたといわれる阪神大震災については記憶に新しいところですが、約100年前の磐梯山噴火当時においても、被災者の救護活動にボランティアとして携わった人がいました。
現在の東京大学医学部大学院生であった芳賀榮次郎と三輪徳寛は、この災害を新聞で知ると、大学の許可をもらい私費で被災者の救護活動に駆けつけて来ました。戦時の傷病者救護活動のために正式に設立して間もない日本赤十字社が、初めての「災害救護活動」として3人の医師を派遣しており、2人はこれを手伝い、負傷者の治療にあたりました。「ボランティア」という言葉がなく、通信手段や鉄道などの交通機関が不便であったこの時代に、このような行動をおこなった人々は災害ボランティアの先駆けといえます。
荒涼の地に緑を戻す取り組み 現在のアカマツ林に囲まれた山と森、そして水の美しい五色沼の風景からは想像もつきませんが、五色沼周辺は噴火の影響が最も大きかった地域で、噴火後10年以上経っても赤土と岩石で荒れ果てた土地でした。そして、この荒地は自然の回復力だけで今の姿となったわけではありません。この荒れ果てた土地を復興させようとした人々の努力があったのです。
会津で醸造業を営んでいた遠藤十次郎(現夢)は1910年(明治43年)、荒れ果てた土地の緑化事業を進めるため、私財を投じて植林活動を始めました。遠藤は林学博士中村弥六の指導を受けて、10年という長い歳月をかけ、アカマツ5万本、杉苗3万本、漆苗2万本の合計10万本を、1,339万平方メートル(東京ドーム約286個分)におよぶ広大な土地に植林しました。現在の五色沼周辺のアカマツ林はこうしてつくられたのです。青沼のほとりには、一帯を見守るように遠藤の墓が建っています。また、植林の指導にあたった中村弥六博士を偲んで、沼の一つが「弥六沼」と名づけられました。
かれらの後を引き継いだ人々は、裏磐梯を山と森と湖がつくりだすスイスのジュネーブのような美しい風景にしようと、植林や造林を進めました。その結果、岩石に覆われ荒れ果てていた五色沼周辺にアカマツ林などの緑を回復させ「東洋のスイス」と呼ばれる風景が生まれ、現在では訪れる人に幻想的な景観を見せています。
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