信仰の島 〜天草諸島〜 多様な自然景観に彩られる天草地域は、同時にキリシタンにまつわる独自の歴史と文化によって形づくられた人文景観を成しています。特に、下島の大江や崎津の天主堂などに見られるさりげない佇まいは、土地に溶け込んだ信仰の歴史をうかがわせています。
島原・天草は、安土・桃山時代にはキリシタン大名・有馬晴信や小西行長などの領地であり、キリスト教徒が多いところでした。しかし、織田信長に保護されたキリスト教も豊臣秀吉には弾圧され、さらに江戸幕府により禁教されました。そして、島原藩主松倉氏と天草領主寺沢氏の過酷な課税やキリスト教徒弾圧に反抗した農民約37,000人が天草島の天草四郎時貞を首領として島原の原城に立てこもる「天草・島原の乱」(1637年〜38年)を起こし、その後も信仰心を試すためのマリア像の踏絵や宗教統制制度の宗門改などキリスト教徒に対する弾圧が厳しく、殉教者や改宗者(転びキリシタン)が続出しました。
しかし、人々の厚い信仰心は長きにわたり密かに守り続けられました。天草・島原の乱から160年以上もたった1805年には、天草西海岸、大江、崎津、今富、高浜の4カ村で、5,200人もの隠れキリシタンが発覚しましたが、村がなくなってしまうほどの人数の多さに幕府は単なる宗門心得違いの者として穏便に処理したと伝えられています。これが世にいう「天草くずれ」です。
明治維新後、1873年(明治6年)、外国の圧力でようやくキリシタン禁制の高札が撤去され、信仰の自由が許されるに至っています。じつにキリシタン禁止令(1587年)から286年経っていました。 |