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「日本で僕たちが習っている農業は、限られた土地でどうやって作物を得られるかというものです。日本の狭い国土のなかでどう生きるかという農業なんです。でも向こうは利潤を追求するための大規模農業。生きるためではなく、お金にどう換えるかという農業です。この二つを見て非常に考えさせられましたね」
こうしたわだかまりを持ったまま帰国し、その後は大学院時代に農業指導をしていた長崎県の農事組合法人から誘いを受け、オランダ村やハウステンボスの運営に携わった。
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澁澤さんが副理事長を務める「共存の森ネットワーク」では、大学生などの若者世代が中心となって地域ボランティアをおこなっている。写真は千葉県市原市での炭焼き活動 |
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もともとハウステンボスは「環境モデル都市」としてつくられたテーマパークだ。最先端のテクノロジーを徹底的に取り入れ、「あれ以上環境にいい街はまだない」と澁澤さんが言うほどだった。
「当時、僕はアジアからの留学生の奨学金財団の手伝いもしていたので、彼らを水俣に連れていって公害の実態を見てもらったり、ハウステンボスで将来的な環境問題の解決法について考えてもらったりしていました。でも、学生たちはハウステンボスに来ると初日はすごく喜ぶのに、2日目からは顔が暗くなる。“これは日本というお金持ちの国だからできることだ。お金がないと解決できないのか”と落ち込むわけです」
彼らの顔を見て悩んだ末、澁澤さんは43歳で職を辞し、海外での社会活動に加わることにした。中国では内陸部の企業の建て直しや石炭問題のアドバイザーをし、戦争で荒廃したベトナムやミャンマーでは、マングローブの植林活動をおこなった。
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