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伊豆諸島・三宅島の自然を語るとき、誰しも世界的海洋生物学者ジャック・モイヤーの業績に触れないわけにはいかない。水中撮影の第一人者、中村宏治さんが語る、博士の大いなる貢献とは?
ジャック・モイヤー博士。1929年米カンザス州生まれ。大学時代に朝鮮戦争で一時日本に駐留。57年から三宅島に住み、中学校の英語教師を務めながら、島の自然保護に尽力した。84年「魚の繁殖生態」により東京大学で博士号取得。2004年没。
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2000年9月3日。白煙を噴き上げる三宅島からの避難船の中に、ひとりのアメリカ人の姿があった。魚類の生態調査で世界的に知られたモイヤー博士だ。在島四十数年。遠ざかる第二の故郷を、博士はどんな思いで見つめたのだろうか。
中村
時効だから、もう話してもいいかな。じつはモイヤーさん、あの全島避難の直前に、規制をかいくぐって、独りで山へ入っちゃったんです。島の地理を知り尽くしていたから、裏道を抜けてね。途中で火山弾を受けて車がダメになっても、70歳過ぎの老体にむち打って、歩いて登ったらしいんです。爆発で吹っ飛んだ山頂部の代わりに、博士がそこで見たのは真っ赤な火口だった。当時、火口を間近から覗いた人は誰もいません。結局、下山中に見つかってすごく怒られたんだけど、全然悪びれなかったからねえ。「半世紀近く島に住み続けてきたのに、何千万年に一度の貴重な自然現象を、この目で見届けないなんて。科学者としての私の責務だ」と。あらためてすごい学者だと思いましたよ。
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中村さんがそんな博士と出会ったのは35年ほど前、水中カメラマンとして独立した頃だ。気さくな人柄と博識、そして日本人以上に日本の自然をいとおしむ気持ちに強く惹かれた。
中村
モイヤーさんはただの海洋生物学者じゃないんですよ。とにかく興味の対象が広くて、深い。命がけで火口を覗きに行くくらいだからね(笑)。博士と三宅島の縁は、じつは魚がきっかけじゃなかったんです。朝鮮戦争で日本に駐留していたとき、島の固有種であるカンムリウミスズメの繁殖地で爆撃演習がおこなわれることを知って、当時の大統領にかけあってやめさせたんです。説得力があるのは、該博な知識と先見性に裏打ちされているからです。だから、専門の魚類の話を聞いても面白い。いっしょに海で仕事をするならこの人しかいないと思いましたね。
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以来、博士に導かれて、三宅島や野生のイルカが棲みつく御蔵島など、伊豆諸島の海に何度も潜った。
中村
そのたびにくり返し教えられたのは、三宅島をはじめ伊豆諸島の自然がいかに貴重かということです。島を洗う黒潮と北大西洋のメキシコ湾流を世界の二大暖流といいますが、後者の通り道には、三宅島のように高い緯度で直接暖流の影響を受ける陸地はありません。「三宅島はガラパゴスに匹敵する世界でも稀有な海洋環境だ」と、モイヤーさんはいつも言っていました。だからこそ、そこに棲むあらゆる生命に興味が尽きないのだ、と。
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世界中の海を見てきた中村さんにとっても、三宅島は特別な島だという。
中村
美しい海も魚たちも、ジャック・モイヤーという偉大な科学者を通して知ったからなおさら魅力的だったんじゃないかなあ。いまでも海で魚を見るたびに、生態の面白さを熱く語るモイヤーさんの、あの人懐っこい笑顔を思い出しますよ。
三宅島は面積約55.5平方キロの火山島。2000年の雄山の噴火以降、現在に至るまで火山ガスの放出が続いている
(写真提供:三宅島観光協会)
世界中の海に潜ってきた中村宏治さん。盟友・モイヤー博士の遺志を継いで、海の環境教育や子ども向けの講演会などにも力を注ぐ
素もぐりで野生のイルカたちと戯れる、在りし日のモイヤー博士(撮影・中村宏治)
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珍しい魚を探し回るのではなく、同じ魚を何時間も観察して、その生命の物語を見届ける。モイヤー博士の薫陶を受けて、中村さんは自らの撮影スタイルを確立していった。
中村
僕にとってモイヤーさんは、海の中を探検していて出会った仙人みたいな存在なんです。だって、言うことが全部現実になるんだから。たとえばサンゴ礁に棲むクマノミという魚がいるでしょう。あの魚の産卵行動を撮ろうと思って彼に聞いたら、「その海域の個体なら○月×日頃の午前中に産むはずだよ」と、そこまで具体的に断言するんです。半信半疑で潜ってみたら、しばらくしてクマノミのメスが、テリトリーにしている岩の表面を口で掃除し始めた。産卵の合図です。
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クマノミは“性転換”をする魚として知られる。集団の中で最も大きな個体だけがメスで、このメスが死ぬと、次に大きいオスがメスに変わる。この不思議な生態を発見したのもモイヤー博士だ。
中村
性転換は、小さく弱いクマノミが子孫を残すための絶妙な戦略です。まさに「一寸の魚にも五分の魂」なんですよ。モイヤーさんの研究によって、人々が名前さえ知らない小魚たちにもそれぞれの生き様があり、そこに驚くべき神秘が隠されていることがわかりました。それをこの目で確かめるのが楽しくて、僕は海に潜るんです。海の中では、すべての生き物が複雑にかかわりあって生きている。食用とか観賞用とか、人間の役に立つ生命だけが尊いわけじゃありません。そういう功利主義から最も遠いところにいたのがモイヤーさんです。だから彼、お金には縁がなかったねえ(笑)
中村さんが活動拠点を置く伊豆・城ヶ崎の富戸港にて。
小さな漁港はダイビングのメッカでもある
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この春、三宅島では噴火以来11年ぶりの全島復帰がかなうが、もう博士の姿はない。島の豊かな自然をもっと知りたい、伝えたいと願いながら避難先で逝った博士の志を、中村さんは次の世代へつなげなければと思う。
中村
博士は生涯をかけて環境教育に尽力しましたが、三宅島の自然がどれだけ貴重かを教えても、肝心の地元の子どもになかなか理解してもらえないといっていました。無理もありません、生まれたときから天然記念物を見ている彼らには、その価値がピンとこないんでしょう。子どもたちは、噴火で島を離れて初めて、「モイヤーさんの言っていたことがわかった」と。海も緑もない避難生活が、故郷のすばらしさを思い起こさせてくれたそうです。そう考えると、天災も悪いとばかりはいえない。きっとモイヤーさんも喜んでいると思いますよ。
産卵するクマノミのペア。岩肌に橙色の卵塊がびっしり(撮影・中村宏治)
Profile
なかむら・こうじ 1947年東京都生まれ。18歳でスキューバダイビングを始め、静岡県の伊豆海洋公園を拠点に水中撮影を学ぶ。海洋生物の知られざる生態を紹介する水中カメラマンとして、国内外のテレビ番組や映画など幅広いメディアで活躍中。主な著書にモイヤー博士との共著『さかなの街』(東海大学出版会)などがある。
・野生ラッコ復活を見守る岬の番人
片岡義廣
(写真家、NPO法人エトピリカ基金理事長 )
・大樹が見せてくれる希望
ジョン・ギャスライト
(農学博士、ツリークライマー)
・コウノトリ、再び日本の空へ
松本 令以
(獣医師)
・果樹の国から発信日本初の「4パーミル」活動
坂内 啓二
(山梨県農政部長)
・ササを守り、京文化を次世代へ 現役囃子方研究者の挑戦
貫名 涼
(京都大学大学院助教)
・葦船を編めば世界も渡れる
石川 仁
(探検家・葦船航海士)
・虫目線で見た神の森
伊藤 弥寿彦
(自然史映像制作プロデューサー)
・親子四代「ホーホケキョ!」いのちの響きを伝えたい
江戸家 小猫
(動物ものまね芸)
・「長高水族館」は本日も大盛況!
重松 洋
(愛媛県立長浜高校教諭)
・走れQ太! 森を守るシカ追い犬
三浦 妃己郎
(林業家)
・消えた江戸のトウガラシが現代によみがえる
成田 重行
(「内藤とうがらしプロジェクト」リーダー)
・山里のくらしを支える石積みの技
真田 純子
・溺れるカエルを救いたい!秘密兵器を開発した少女
藤原 結菜
・音楽界に革新!?クモの糸でストラディバリウスの音色に挑む
大﨑 茂芳
・ふるさとの空に赤トンボを呼び戻す
前田 清悟
(NPO法人たつの・赤トンボを増やそう会理事長)
・大自然がくれた至福の味 カニ漁師奮戦記
吉浜 崇浩
(カニ漁師、株式会社「蟹蔵」代表)
・カラスを追い払うタカ─害鳥対策の現場から
石橋 美里
(鷹匠)
・タカの渡りを追う
久野 公啓
(写真家、渡り鳥研究家)
・微生物が創り出す極上ワイン
中村 雅量
(奥野田葡萄酒醸造株式会社 代表取締役)
・「海藻の森づくり」で海も人も健康に
佐々木 久雄
(NPO法人 環境生態工学研究所理事)
・大学をニホンイシガメの繁殖地に
楠田 哲士
(岐阜大学応用生物科学部准教授)
・面白くて、おいしい「キッチン火山実験」
林 信太郎
(秋田大学教授、秋田大学附属小学校校長)
・世界で唯一、エビとカニの水族館
森 拓也
(すさみ町立エビとカニの水族館館長)
・都会の真ん中に“山”をつくる
田瀬 理夫
(造園家、プランタゴ代表)
・一粒万倍 美味しい野菜はタネが違う
野口 勲
(野口のタネ/野口種苗研究所代表)
・都市の里山に宿る神々
ケビン・ショート
(ナチュラリスト、東京情報大学教授)
・ムササビ先生、今夜も大滑空観察中
岡崎 弘幸
(中央大学附属中学校・高等学校教諭)
・保津川下り400年─清流を守る船頭の心意気
森田 孝義
(船士)
・小笠原の「希少種を襲うノネコ」引っ越し大作
小松 泰史
(獣医師)
・チリモンを探せ!
藤田 吉広
(きしわだ自然資料館専門員)
・スズメバチハンター走る!
松丸 雅一
(養蜂家)
・東京湾のサンゴを見つめて
竹内 聖一
(NPO法人 たてやま・海辺の鑑定団理事長)
・芝とシカのふしぎな関係
片山 一平
(京都府立桂高校教諭)
・ドブ池ドブ川奇跡の復活炭博士が行く
小島 昭
(群馬工業高等専門学校特命教授)
・「木一本、鰤(ぶり)千本」─豊かな海を育んだ海底湧水の秘密
張 勁
(富山大学教授)
・わくわくドキドキ! 夏の夜の生きもの探し
佐々木洋
(プロ・ナチュラリスト)
・かわいい変顔 虫目で見つけた!
鈴木海花
(フォトエッセイスト)
・癒しの森でいのちを洗う
降矢英成
(心療内科医)
・ブナの山が育てた神の魚
杉山秀樹
(秋田県立大学客員教授)
・自然と調和する酪農郷
二瓶 昭
(酪農家、NPO法人えんの森理事長)
・漁師が見た琵琶湖
戸田直弘
(漁師)
・田んぼの恵みはお米だけじゃない
石塚美津夫
(NPO法人「食農ネットささかみ」理事長)
・「結」の心を伝えたい
和田利治
(屋根葺き技術士)
・多摩川復活の夢
山崎充哲
(淡水魚類・魚道研究家)
・モイヤー博士の愛した島
中村宏治
(水中カメラマン)
・白神山地が育む奇跡の菌
高橋慶太郎
(秋田県総合食品研究センター主席研究員)
・ありがとう、ハチゴロウ
佐竹節夫
(コウノトリ湿地ネット代表)
・ヤイロチョウの森の守り人
中村滝男
(生態系トラスト協会会長)
・水辺って、こんなに面白い!
井上大輔
(福岡県立北九州高等学校教諭)
・地熱染め 色彩の魔術
高橋一行
(地熱染色作家)
・里山っ子ばんざい!
宮崎栄樹
(木更津社会館保育園園長)
・金沢和傘の伝統を引き継ぐ
間島 円
(和傘職人)
・「竹のこころ」を伝えたい
ジョン・海山・ネプチューン
・クマのクーちゃん 人工冬眠大作戦!
小宮輝之
(上野動物園 園長)
・まつたけ十字軍がゆく
吉村文彦
(まつたけ十字軍運動代表)
・氷の匠
──冬に育む夏の美味
阿左美哲男
(天然氷蔵元)
・日本でただひとりのカエル捕り名人
大内一夫
(カエル販売業)
・「村の鍛冶屋」の火を守る
野口廣男
(鍛冶職人)
・杉線香づくり100年
駒村道廣
(線香職人)
・空師
(そらし)
──伐って活かす巨木のいのち
熊倉純一
・日本ミツバチに学んだこと
藤原誠太
・満天の星に魅せられて
小千田節男
・ブドウ畑に実る夢
ブルース・ガットラヴ
・タゲリ舞う里を描いて
森上義孝
・ホタル博士、水辺を想う
大場信義
・左官は「風景」を生み出す職人
挟土秀平
・僕は「SATOYAMA」の応援団長
柳生 博
・
ムツカケ名人に学ぶ──
豊穣の海に伝わる神業漁法
岡本忠好
・イチローの バットを作った男
久保田五十一
(バットマイスター)