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「自然」に魅せられて
虫目線で見た神の森
伊藤弥寿彦(自然史映像制作プロデューサー)
一般人は立ち入りを許されていない明治神宮の森で、初めて大規模な生物調査がおこなわれた。その記録を番組にした映像のプロが見た森の真実とは。
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大学院時代、自然番組の制作スタッフにリクルートされたのが、映像の道に入るきっかけだった

誰も知らなかった生物相
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NHKスペシャル『明治神宮 不思議の森〜100年の大実験〜』(2015年放送)は大変な話題になり、その後、内容を拡大した90分の「完全版」もBSで放送された。あの番組で明治神宮について知り、驚かされた人が多かった。
いまも神社めぐりを続ける。全国に100ほどあるも一宮は「あと4カ所でコンプリートです!
伊藤

じつは、あの映像は当初、番組を作るために撮影したものではありませんでした。明治神宮では2011年に大規模な生物調査がおこなわれまして、その記録映像として撮影したものです。撮影しているうちに、生き物の営みはもちろん、一途な研究者の生態(笑)、明治神宮の森がつくられたいきさつなど、あまりにも面白いエピソード満載だったので番組の企画を立ち上げたんです。撮影は4年間におよびました。

都心最大の緑地は皇居ですが、その皇居では、すでに1996年から5カ年かけた生物相調査が国立科学博物館の主導でおこなわれ、りっぱな調査報告書が出ていました。ほかに都心の主だった緑地である赤坂御所、新宿御苑、自然教育園などでも過去に生物調査が実施されていましたが、明治神宮は皇居に次ぐ規模の緑地であるにもかかわらず、鎮座50年を迎えた1970年に植物と土壌生物と鳥類に関して生物調査が実施されただけで、それ以外の動物についてはまったくの白紙状態でした。明治神宮の森は原則、参道以外立ち入り禁止ですから、どんな生き物がいるのか、誰も知らなかったんですね。

調査は、立ち上げからお手伝いさせていただいたのですが、その実現までには、組織づくりや資金の面などいろいろと難関がありました。実際、もうダメかと思ったときもあります。でも、なんとか乗り越えて、40年来の虫仲間で自然環境調査のエキスパートである新里達也さんが取りまとめ役となり、2011年から1年間(一部は2年間)かけて「第二次明治神宮境内総合調査」が実施されることになりました。

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調査委員会の座長に就任した進士五十八氏(現・福井県立大学学長)は、明治神宮の造営を担った上原敬二の弟子にあたる。植物については毎木調査をおこない、過去3回おこなわれた毎木調査と比較する。動物については鳥と土壌生物以外は初の調査となった。
伊藤

結果は、植物779種、動物1797種、菌類165種、変形菌99種が記録されました。合計3000種弱ですが、実際には間違いなく3000種をはるかに超える生物がいるでしょう。鳥類については少し特殊な事情があります。じつは明治神宮はバードウォッチングの発祥の地で、1954年から今日まで、なんと毎月、参道からの観察記録が残っているのです。鳥は姿が見えなくても、声で種類がわかります。その記録に、森の変化がはっきりと現れてきます。たとえば草原を好むキジやコジュケイは、1970年代までよく見られたのに、いまはまったく見られなくなりました。逆にコゲラやオオタカが現れた。これは草原が縮小し、森が深くなった証拠でしょう。

ふつうはエビ茶色のトガリバアカネカミキリが、明治神宮では真っ黒だった(撮影:伊藤弥寿彦)
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元は“昆虫少年”。高校時代は東京から西表島に通いつめ、生物学を究めたくてアメリカの大学へ。帰国後は再び西表島に帰ろうと、かの地に研究所のある東海大学の大学院を選んだという筋金入りの生物好きだ。とりわけ昆虫には思い入れが深い。明治神宮の森にどんな昆虫がいるのか、大いに興味があった。
伊藤

私が個人的に研究しているのはとくにカミキリムシなんです。カミキリは幼虫が木を食べるので、明治神宮の森にどんなのがいるか、興味津々でした。カミキリは日本に800種ぐらいいて、見れば私はだいたいわかります。明治神宮では40種近く見つかったんですが、見たことのないのがいたんですよ。調べたら、トガリバアカネカミキリという、わりとどこにでもいる種類だったんですが、ふつうはエビ茶色なのにここのカミキリは真っ黒だったんです。たぶん限られた森の中で交配を繰り返していくうちに、黒い個体が増えていったのではないかと思っています。

今回の調査で、とんでもないものが発見された、という例は少しはありましたが、総じてそういうことはほとんどなく、昔からこの地域にいた生き物がいまも残っている、という状況でした。まわりの地域からはもう消えてしまったものが、タイムカプセルに閉じ込められたように残っているわけです。まわりがどんどん開発されて、鎮守の森にだけ、昔いた生き物が残っているんですね。


虫がもたらした出会い
── 
明治神宮では動画だけでなく、スチール写真も撮影された。撮影したのは写真家の佐藤岳彦さん。のちにこれが写真集『生命の森 明治神宮』に結実した。
明治神宮の森で純白の作務衣を羽織って調査中(調査以外で動植物の採集は不可)。巨大な網(通称、欲張りネット)でカエデの花をすくいカミキリムシを探す
伊藤

写真集の構想は最初から持っていました。佐藤岳彦さんとの出会いも、昆虫つながりです。明治神宮のプロジェクトが始まる少し前に、群馬県の武尊(ほたか)山のブナの森を歩いていたら、自己流に改造した機材で写真を撮っている、怪しげな人がいたんです。一目見て、「ただ者でない」という感じがしました。それからしばらくたって、ネットで、なかなかいい写真が並んでいるブログを見つけたのですが、カミキリムシの写真を見た瞬間、これは絶対あの山で会った人だと確信したのです。そのブナの森にいるカミキリムシでしたから。そうしたら、何の偶然か、数日後にツイッターで彼が私をフォローしてきたので、「あなたは2009年8月9日に武尊山にいましたね?」とメッセージを送ったのです。そのときの彼の驚きようといったら(笑)。彼は山で私とすれ違ったことも覚えていませんでした。生き物に対する幅広い知識をもつ彼は、ちょうど始まった生物調査の記録写真に最適で、調査にはりついて撮影してもらうことになったのです。おかげですばらしい写真集ができました。


対照的な二つの森
── 
明治神宮での生物調査を経て、番組が完成するまでには4年の歳月がかかった。その間、並行して伊勢の神宮の番組(NHKワイルドライフ『伊勢神宮 光降る悠久の森に命がめぐる』)にもとりかかっていた。ちょうど20年に1度の式年遷宮に向けた番組だった。
伊藤

伊勢の神宮の森はある意味、究極の鎮守の森です。世田谷区と同じほどの広大な面積で、しかも太古からある森。ここは3つの区画に分かれていて、一つは式年遷宮に使うためのヒノキを育てている森。昔は自前のヒノキを使っていたのが江戸時代に使い果たしてしまい、いまは木曽谷のヒノキを使っています。しかし、自前のヒノキを育てようという計画が大正9年からスタートして、今年でちょうど100年。番組を作った2013年の式年遷宮のときは、このヒノキを一部使うことができました。じつはここは一般の植林と違って、ヒノキのほかに広葉樹も植えてある混合林なのです。

林業的な生産性は低くなりますが、様々な木々の落ち葉があってヒノキの栄養分になり、生物多様性も高い。このヒノキの森のほかに、完全な神域で人が入るのを禁じている森と、ある程度人は入れるが自然のままの森があります。伊勢の神宮の森は、何もないところに木を植えて、100年自然にまかせた明治神宮の森とは、ある意味対照的です。それを同時進行で取材できたのは得難い経験でした。古事記の研究をしているせいもあって、この3〜4年間で全国の神社を400社近く訪れました。鎮守の森はそれぞれに特徴があって興味が尽きません。

生物調査から生まれた写真集(講談社刊)
撮影:佐藤岳彦
執筆:伊藤弥寿彦
Profile

いとう・やすひこ 1963年東京都生まれ。学習院、ミネソタ州立大学(動物学)を経て、東海大学大学院で海洋生物を研究。20年以上にわたり自然番組ディレクターとして世界中をめぐる。NHK「生きもの地球紀行」「ダーウィンが来た!」シリーズのほか、NHKスペシャル「明治神宮 不思議の森」「南極大紀行」など作品多数。初代総理大臣・伊藤博文は曽祖父。
CONTENTS
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コンテンツ
・野生ラッコ復活を見守る岬の番人  片岡義廣(写真家、NPO法人エトピリカ基金理事長 )
・大樹が見せてくれる希望 ジョン・ギャスライト(農学博士、ツリークライマー)
・コウノトリ、再び日本の空へ 松本 令以(獣医師)
・果樹の国から発信日本初の「4パーミル」活動 坂内 啓二(山梨県農政部長)
・ササを守り、京文化を次世代へ 現役囃子方研究者の挑戦 貫名 涼(京都大学大学院助教)
・葦船を編めば世界も渡れる 石川 仁(探検家・葦船航海士)
・虫目線で見た神の森 伊藤 弥寿彦(自然史映像制作プロデューサー)
・親子四代「ホーホケキョ!」いのちの響きを伝えたい 江戸家 小猫(動物ものまね芸)
・「長高水族館」は本日も大盛況! 重松 洋(愛媛県立長浜高校教諭)
・走れQ太! 森を守るシカ追い犬 三浦 妃己郎(林業家)
・消えた江戸のトウガラシが現代によみがえる 成田 重行(「内藤とうがらしプロジェクト」リーダー)
・山里のくらしを支える石積みの技 真田 純子
・溺れるカエルを救いたい!秘密兵器を開発した少女 藤原 結菜
・音楽界に革新!?クモの糸でストラディバリウスの音色に挑む 大﨑 茂芳
・ふるさとの空に赤トンボを呼び戻す 前田 清悟(NPO法人たつの・赤トンボを増やそう会理事長)
・大自然がくれた至福の味 カニ漁師奮戦記 吉浜 崇浩(カニ漁師、株式会社「蟹蔵」代表)
・カラスを追い払うタカ─害鳥対策の現場から 石橋 美里(鷹匠)
・タカの渡りを追う 久野 公啓(写真家、渡り鳥研究家)
・微生物が創り出す極上ワイン 中村 雅量(奥野田葡萄酒醸造株式会社 代表取締役)
・「海藻の森づくり」で海も人も健康に 佐々木 久雄(NPO法人 環境生態工学研究所理事)
・大学をニホンイシガメの繁殖地に 楠田 哲士(岐阜大学応用生物科学部准教授)
・面白くて、おいしい「キッチン火山実験」 林 信太郎(秋田大学教授、秋田大学附属小学校校長)
・世界で唯一、エビとカニの水族館 森 拓也(すさみ町立エビとカニの水族館館長)
・都会の真ん中に“山”をつくる 田瀬 理夫(造園家、プランタゴ代表)
・一粒万倍 美味しい野菜はタネが違う 野口 勲(野口のタネ/野口種苗研究所代表)
・都市の里山に宿る神々 ケビン・ショート(ナチュラリスト、東京情報大学教授)
・ムササビ先生、今夜も大滑空観察中 岡崎 弘幸(中央大学附属中学校・高等学校教諭)
・保津川下り400年─清流を守る船頭の心意気 森田 孝義(船士)
・小笠原の「希少種を襲うノネコ」引っ越し大作 小松 泰史(獣医師)
・チリモンを探せ! 藤田 吉広(きしわだ自然資料館専門員)
・スズメバチハンター走る! 松丸 雅一(養蜂家)
・東京湾のサンゴを見つめて 竹内 聖一(NPO法人 たてやま・海辺の鑑定団理事長)
・芝とシカのふしぎな関係 片山 一平(京都府立桂高校教諭)
・ドブ池ドブ川奇跡の復活炭博士が行く 小島 昭(群馬工業高等専門学校特命教授)
・「木一本、鰤(ぶり)千本」─豊かな海を育んだ海底湧水の秘密 張 勁(富山大学教授)
・わくわくドキドキ! 夏の夜の生きもの探し 佐々木洋(プロ・ナチュラリスト)
・かわいい変顔 虫目で見つけた! 鈴木海花(フォトエッセイスト)
・癒しの森でいのちを洗う 降矢英成(心療内科医)
・ブナの山が育てた神の魚 杉山秀樹(秋田県立大学客員教授)
・自然と調和する酪農郷 二瓶 昭(酪農家、NPO法人えんの森理事長)
・漁師が見た琵琶湖 戸田直弘(漁師)
・田んぼの恵みはお米だけじゃない 石塚美津夫(NPO法人「食農ネットささかみ」理事長)
・「結」の心を伝えたい 和田利治(屋根葺き技術士)
・多摩川復活の夢 山崎充哲(淡水魚類・魚道研究家)
・モイヤー博士の愛した島 中村宏治(水中カメラマン)
・白神山地が育む奇跡の菌 高橋慶太郎(秋田県総合食品研究センター主席研究員)
・ありがとう、ハチゴロウ 佐竹節夫(コウノトリ湿地ネット代表)
・ヤイロチョウの森の守り人 中村滝男(生態系トラスト協会会長)
・水辺って、こんなに面白い! 井上大輔(福岡県立北九州高等学校教諭)
・地熱染め 色彩の魔術 高橋一行(地熱染色作家)
・里山っ子ばんざい! 宮崎栄樹(木更津社会館保育園園長)
・金沢和傘の伝統を引き継ぐ 間島 円(和傘職人)
・「竹のこころ」を伝えたい ジョン・海山・ネプチューン
・クマのクーちゃん 人工冬眠大作戦! 小宮輝之(上野動物園 園長)
・まつたけ十字軍がゆく 吉村文彦(まつたけ十字軍運動代表)
・氷の匠──冬に育む夏の美味 阿左美哲男(天然氷蔵元)
・日本でただひとりのカエル捕り名人 大内一夫(カエル販売業)
・「村の鍛冶屋」の火を守る 野口廣男(鍛冶職人)
・杉線香づくり100年 駒村道廣(線香職人)
・空師(そらし)──伐って活かす巨木のいのち 熊倉純一
・日本ミツバチに学んだこと 藤原誠太
・満天の星に魅せられて 小千田節男
・ブドウ畑に実る夢 ブルース・ガットラヴ
・タゲリ舞う里を描いて 森上義孝
・ホタル博士、水辺を想う 大場信義
・左官は「風景」を生み出す職人 挟土秀平
・僕は「SATOYAMA」の応援団長 柳生 博
ムツカケ名人に学ぶ──豊穣の海に伝わる神業漁法 岡本忠好
・イチローの バットを作った男 久保田五十一(バットマイスター)

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