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東京から南へ1000km。世界自然遺産・小笠原諸島で、希少な野鳥を襲うノネコを捕獲し、本土へ移す活動を行っている獣医師がいる。活動を始めて10年。成果はあがり、人道的な外来種対策として世界からも注目されている。
1、2カ月ですっかり人に馴れた元・小笠原のノネコたち。黒猫の「かーちゃん」(写真上)は妊娠してやってきたが、小松先生のもとで無事出産し、生まれた子ネコたちにも新しい里親が見つかった
──
「マイケル!」。小松泰史さんが呼ぶと、診察室の奥から一匹の雄ネコが現れた。人にゴロゴロと甘える姿から、絶海の孤島で野鳥を捕らえて生き延びていたノネコ(野生化したイエネコ)とはとても思えない。
小松
母島生まれのこのマイケルは、「ノネコ引っ越し作戦」で本土へ移された最初のネコです。母島は小笠原の有人島で唯一、カツオドリなど大型の海鳥が繁殖する島ですが、2005年に、地元のNPOが調査したら、彼らの営巣地がひどく荒らされていて、消滅寸前になっていることがわかりました。海鳥の死骸には歯形が残っていました。マイケルのしわざです。監視カメラに、自分より大きなカツオドリをくわえる姿が写っていたんです。すぐにワナが仕掛けられ、捕獲されました。
キタキツネの生態観察で知られる元獣医師の写真家・竹田津実氏に憧れて、この道を志したという小松先生。そんな先生と出会い、命を救われたマイケルはやや幸せ太り気味か。島にいた頃の姿(
ページ下
)と比べるとまるで別ネコ!?
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捕獲はしたものの、問題はそのノネコをどうするか。島内には引き取り手はないし、放せばまた鳥を襲う。地元NPOから獣医師会を通じて小松さんに相談が寄せられた。
小松
最初の依頼は「ネコを安楽死させる方法を教えてほしい」という話でした。ふつう、希少な鳥類などを襲うネコは、侵略的外来種として殺処分の対象になります。しかし私は断固反対しました。命の重さは鳥もネコも同じ。どんな動物でも、その命を守るのが、私たち獣医師の使命ですからね。殺処分すれば、それはそれで批判があるだろうし、世界遺産への登録を目指す小笠原の自然保護活動にも影響を及ぼしかねません。そこで捕獲したネコを本土の動物病院で引き取り、人と暮らせるように馴らしてから里親を探す「引っ越し作戦」を提案したのです。
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とはいえ、小松さんにはうまくいく確証はなかった。野生化したネコをイエネコのように馴らしたことはなかったからである。はたして病院に連れてこられたマイケルは、動物のプロも手を焼くほど凶暴だった。
小松
それはもう凄かった。シャーシャー威嚇するわ、パンチは飛んでくるわ、触るどころじゃありません。ケージに入れたまま、病院内で人がよく通る場所に置き、まずは人間を覚えさせることから始めたんです。そばを通るたびに、ボールペンでちょっかいを出したりして。そうするうちにだんだん馴れてきて、2カ月ぐらいで抱っこできるまでになりました。嬉しかったですね。ネコの受け入れは、当初、私が直接お願いした動物病院だけでしたが、馴れるとわかったことで、東京都獣医師会の正式事業として認められ、いまでは同会所属のおよそ140病院が協力してくれています。
「引っ越し作戦」のきっかけになった監視カメラの決定的映像(左)。マイケルがくわえているカツオドリは大型の海鳥だが(右)、地上での動きが鈍く警戒心も薄いことから、英語では「ブービー」(まぬけ、びりの意)と呼ばれる
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活動開始から10年。いまでは400匹以上のネコが海を渡った。ネコはもともと小笠原にいなかった動物である。
小松
1830年頃から、無人島だった小笠原に人が移り住み、このときネコが持ち込まれました。そのネコの子孫が戦時中の島民の強制疎開で野生化、戦後は捨てネコも増えて、希少種の脅威になったのです。ネコは優れたハンターで、生態系の中では最強の外来種といわれるほどです。しかも、小笠原固有の鳥たちは天敵の少ない環境で進化しただけに警戒心が薄く、狙われたらひとたまりもありません。なかでも地上に降りてきて餌を食べる習性をもつ、絶滅危惧種のアカガシラカラスバトは、ノネコの格好の獲物です。一時期は生息数が小笠原全域で50羽前後にまで激減してしまい、研究者もめったに姿を見られない幻のハトになってしまいました。
地球上で小笠原にしか生息していないアカガシラカラスバト。主食は木の実だが、樹上の実より熟して地面に落ちた実を好むため、地上を何時間も歩いてエサを探す。イタチなどの天敵がいない環境に適応して身につけた習性だ
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小笠原では人が移り住んで以来、固有の鳥がすでに6種も姿を消している。このままではアカガシラカラスバトが7番目の絶滅鳥になってしまう──。マイケルが捕獲された母島に続き、希少なハトが営巣する父島でも「ノネコ引っ越し作戦」が始まったのは、そうした危機感からだった。
小松
現在、有志やNPO、関係機関と連携して、父島・母島全域にまでノネコの捕獲を拡大し、一年中行っています。島のいたるところにワナを仕掛けて、ネコがかかっていないか、スタッフが毎日見て回っています。島から本土へのネコの搬送は、地元の船会社が無償で引き受けてくれています。なんとかして小笠原の固有の生態系を守ろうとする彼らの熱意に応えるためにも、われわれは責任をもってネコを預かり、その命を新しい里親にまでつないでいかなければなりません。島でしか生きられない野鳥にとっては、島が最後の楽園ですが、ネコは都会でも幸せになれる。むしろ愛情をもって接してくれる飼い主の存在こそが、彼らにとっての〝最後の楽園〟なんです。
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小松さんら獣医師会の尽力で、小笠原から連れてきたネコのうち約6割に新しい飼い主が見つかった。1割は病院で馴らしている最中か、里親募集中だ。では、残りの3割は?
小松
ネコを受け入れた動物病院の院長やスタッフが自分で飼っているんです。とくに最初に預かって馴らしたネコというのは、どうしても情が移って、手放せなくなってしまうんですね。うちのマイケルみたいに、病院の看板ネコに収まっている子も少なくありません。
小松
ノネコの捕獲・引っ越しを地道に続けたことで、希少鳥類の保護にようやく光が見えてきました。絶滅寸前だったアカガシラカラスバトは、生息数が200〜300羽程度と劇的に回復し、マイケルが荒らした母島の海鳥繁殖地も、近年、オオミズナギドリやカツオドリが次々と舞い戻っています。こうした活動の成果は、世界遺産登録審査で来島したユネスコの視察団にも「人道的だ」と高く評価されました。生物多様性を破壊する外来種は、欧米では殺処分が当然とされていて、殺さない取り組みは他に例がありません。残念ながらネコ以外では、やむなく殺処分されている外来種がいるのもたしかです。しかしだからといって、「ネコだけを助けるのは不公平」という指摘はあたらない。大切なのは、守れる命を一つひとつ確実に守っていくことじゃないでしょうか。
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もちろん島にはネコを飼う家もある。そこで獣医師会では、新しいノネコを出さないよう、年1回「小笠原動物医療派遣団」を送り、ペットの治療や不妊化手術、マイクロチップの装着とともに、できるだけ室内飼いするよう普及啓発にあたっている。
小松
世界自然遺産だからといって、地元の人が猫一匹飼えないような島にはしたくありません。私たちが目指すのは、人とペットと野生動物が共存できる社会。とくに高齢者や小さな子供たちがそうですが、動物を飼うことによって心が癒されるというのは万国共通です。私も、ゆくゆくは向こうへ移住して、島の獣医になるのが夢なんです。そのときは、わが家の元ノネコたちもいっしょに里帰りですよ(笑)。
ノネコはかごワナを使って捕獲する。島は魚が豊富なので、おびき寄せる餌には事欠かない。捕獲したネコは、島と都心を結ぶ週1回の船便に乗せるまでの間、島内の施設で一時飼養し、元気な状態で動物病院へ送られる(写真のネコはマイケル)
Profile
こまつ・やすし 1981年酪農学園大学酪農学部獣医学科卒。84年東京都稲城市に新ゆりがおか動物病院を開院。公益社団法人東京都獣医師会副会長を務め、同会の小笠原自然環境保護活動事業を主導する。2005年から自然保護団体や環境省、東京都などとの協働で、「ノネコの引っ越し作戦」を継続中。希少鳥類が復活するなど、目覚ましい成果をあげている。
・野生ラッコ復活を見守る岬の番人
片岡義廣
(写真家、NPO法人エトピリカ基金理事長 )
・大樹が見せてくれる希望
ジョン・ギャスライト
(農学博士、ツリークライマー)
・コウノトリ、再び日本の空へ
松本 令以
(獣医師)
・果樹の国から発信日本初の「4パーミル」活動
坂内 啓二
(山梨県農政部長)
・ササを守り、京文化を次世代へ 現役囃子方研究者の挑戦
貫名 涼
(京都大学大学院助教)
・葦船を編めば世界も渡れる
石川 仁
(探検家・葦船航海士)
・虫目線で見た神の森
伊藤 弥寿彦
(自然史映像制作プロデューサー)
・親子四代「ホーホケキョ!」いのちの響きを伝えたい
江戸家 小猫
(動物ものまね芸)
・「長高水族館」は本日も大盛況!
重松 洋
(愛媛県立長浜高校教諭)
・走れQ太! 森を守るシカ追い犬
三浦 妃己郎
(林業家)
・消えた江戸のトウガラシが現代によみがえる
成田 重行
(「内藤とうがらしプロジェクト」リーダー)
・山里のくらしを支える石積みの技
真田 純子
・溺れるカエルを救いたい!秘密兵器を開発した少女
藤原 結菜
・音楽界に革新!?クモの糸でストラディバリウスの音色に挑む
大﨑 茂芳
・ふるさとの空に赤トンボを呼び戻す
前田 清悟
(NPO法人たつの・赤トンボを増やそう会理事長)
・大自然がくれた至福の味 カニ漁師奮戦記
吉浜 崇浩
(カニ漁師、株式会社「蟹蔵」代表)
・カラスを追い払うタカ─害鳥対策の現場から
石橋 美里
(鷹匠)
・タカの渡りを追う
久野 公啓
(写真家、渡り鳥研究家)
・微生物が創り出す極上ワイン
中村 雅量
(奥野田葡萄酒醸造株式会社 代表取締役)
・「海藻の森づくり」で海も人も健康に
佐々木 久雄
(NPO法人 環境生態工学研究所理事)
・大学をニホンイシガメの繁殖地に
楠田 哲士
(岐阜大学応用生物科学部准教授)
・面白くて、おいしい「キッチン火山実験」
林 信太郎
(秋田大学教授、秋田大学附属小学校校長)
・世界で唯一、エビとカニの水族館
森 拓也
(すさみ町立エビとカニの水族館館長)
・都会の真ん中に“山”をつくる
田瀬 理夫
(造園家、プランタゴ代表)
・一粒万倍 美味しい野菜はタネが違う
野口 勲
(野口のタネ/野口種苗研究所代表)
・都市の里山に宿る神々
ケビン・ショート
(ナチュラリスト、東京情報大学教授)
・ムササビ先生、今夜も大滑空観察中
岡崎 弘幸
(中央大学附属中学校・高等学校教諭)
・保津川下り400年─清流を守る船頭の心意気
森田 孝義
(船士)
・小笠原の「希少種を襲うノネコ」引っ越し大作
小松 泰史
(獣医師)
・チリモンを探せ!
藤田 吉広
(きしわだ自然資料館専門員)
・スズメバチハンター走る!
松丸 雅一
(養蜂家)
・東京湾のサンゴを見つめて
竹内 聖一
(NPO法人 たてやま・海辺の鑑定団理事長)
・芝とシカのふしぎな関係
片山 一平
(京都府立桂高校教諭)
・ドブ池ドブ川奇跡の復活炭博士が行く
小島 昭
(群馬工業高等専門学校特命教授)
・「木一本、鰤(ぶり)千本」─豊かな海を育んだ海底湧水の秘密
張 勁
(富山大学教授)
・わくわくドキドキ! 夏の夜の生きもの探し
佐々木洋
(プロ・ナチュラリスト)
・かわいい変顔 虫目で見つけた!
鈴木海花
(フォトエッセイスト)
・癒しの森でいのちを洗う
降矢英成
(心療内科医)
・ブナの山が育てた神の魚
杉山秀樹
(秋田県立大学客員教授)
・自然と調和する酪農郷
二瓶 昭
(酪農家、NPO法人えんの森理事長)
・漁師が見た琵琶湖
戸田直弘
(漁師)
・田んぼの恵みはお米だけじゃない
石塚美津夫
(NPO法人「食農ネットささかみ」理事長)
・「結」の心を伝えたい
和田利治
(屋根葺き技術士)
・多摩川復活の夢
山崎充哲
(淡水魚類・魚道研究家)
・モイヤー博士の愛した島
中村宏治
(水中カメラマン)
・白神山地が育む奇跡の菌
高橋慶太郎
(秋田県総合食品研究センター主席研究員)
・ありがとう、ハチゴロウ
佐竹節夫
(コウノトリ湿地ネット代表)
・ヤイロチョウの森の守り人
中村滝男
(生態系トラスト協会会長)
・水辺って、こんなに面白い!
井上大輔
(福岡県立北九州高等学校教諭)
・地熱染め 色彩の魔術
高橋一行
(地熱染色作家)
・里山っ子ばんざい!
宮崎栄樹
(木更津社会館保育園園長)
・金沢和傘の伝統を引き継ぐ
間島 円
(和傘職人)
・「竹のこころ」を伝えたい
ジョン・海山・ネプチューン
・クマのクーちゃん 人工冬眠大作戦!
小宮輝之
(上野動物園 園長)
・まつたけ十字軍がゆく
吉村文彦
(まつたけ十字軍運動代表)
・氷の匠
──冬に育む夏の美味
阿左美哲男
(天然氷蔵元)
・日本でただひとりのカエル捕り名人
大内一夫
(カエル販売業)
・「村の鍛冶屋」の火を守る
野口廣男
(鍛冶職人)
・杉線香づくり100年
駒村道廣
(線香職人)
・空師
(そらし)
──伐って活かす巨木のいのち
熊倉純一
・日本ミツバチに学んだこと
藤原誠太
・満天の星に魅せられて
小千田節男
・ブドウ畑に実る夢
ブルース・ガットラヴ
・タゲリ舞う里を描いて
森上義孝
・ホタル博士、水辺を想う
大場信義
・左官は「風景」を生み出す職人
挟土秀平
・僕は「SATOYAMA」の応援団長
柳生 博
・
ムツカケ名人に学ぶ──
豊穣の海に伝わる神業漁法
岡本忠好
・イチローの バットを作った男
久保田五十一
(バットマイスター)